出だし近く聞取り不良

昭和43年06月14日 朝の御理解



 御理解第89節「此方の道は傘一本で開くことができる。」

 「此方の道は傘一本で開くことができる。」この方の道とはどういう道だろうかと。これはね、信心の道とか、天地につながる道とかというような感じだったんですけれども、そうでないですね。「此方の道は傘一本で開くことができる。」という道はね。それぞれの道、商売をさして頂いておる者ならば商売、商売の道を。百姓をしておる者ならば百姓道という道がある。
 夫婦の仲なら、または親子の仲でもやはり道がある、夫婦仲良う、親子仲良うというような道が開けてくるのです。「此方の道は傘一本で開くことができる。」と。この方の道はそれぞれの持ち場立場の道が開けてくると。金光様の信心を頂いておれば道が開けるというのでもない、ね、傘一本で開くことができるということ。一本の傘を頂かなければ、いつも頂いておりますように。
 お互い信心によって開かせて頂くところの安心のことでございますね。いよいよ。    (録音不良)
 というのにもございますからそれもやはりございます。ですからその中の自分のまあ修行のしよる時間をお互いとらせて頂くのでございますけれども、できるならば夏の修行なら夏の修行らしゅう、本気でひとつ、皆でそれこそ、汗だくだくの修行をですね、もう本気で大祓いをあげさしてもろうて、神様へそういう修行を皆で捧げたいということに話は決まったんです。
 ですから丁度お百姓さんであるならば、昼の丁度ご飯の後に暑い盛は休みますから、休む時間をちょうど御祈念ということになるのでございます。しかもこの50日という日をきってからしたらその、福岡の方達が話しておられることですけれども。高橋さんが言っておられる。これは朝の御祈念に参ってくる、帰ったら今度はもう昼の御祈念に参ってくる。これはもう家で、それこそ仕事する間もなし。立教神伝の。
 また、またも合楽に出て来なければならんから、これはもうひとつ、朝のまま、もうここで、ね、おらせて頂いてから1時の御祈念頂いてから帰ろうと(笑)話しておられるんですけれどもね。そんなことはできんにいたしましてもです、ね。確かにその、例えば朝の御祈念はもう朝の御祈念として是非修行さしてもらう。これはもう年中、それは。ただ、特別の修行として。
 例えば1時か4時かの御祈念を頂こうというのであるから、同じ頂くならその暑い盛の1時のを頂こうというのであるとすると、1時と朝の御祈念のその間というものはですね。福岡から行ったり来たり。その何時間という時間を、まあ合楽で寝とく方がよか(笑)。言うならば、もう神様への修行。お神様参りに、もうかかっとらなきゃならん。私はここんところにですね、言うならば魅力と申しますかね。
 欲得にふける反対に、その欲得を捨てる修行があると。それは、お参りをしてくる、その夏の修行というだけではなくてです、欲得を捨て去らしてもらうところの修行がそこにはあると思う。その例えばんなら、中村さんがお参りしてみえるといたしましょうか。朝の御祈念に参ってから、また1時の御祈念ちゅうなら、例えばその間、言うなら店を閉めなければならん。初美さんは仕事に行っておられる、ね。
 そんなことはでけんと言う所にです言わば、ね、本当言うたら、そういう心の中にですね、欲得にふけりて身を苦しめると仰るその身を苦しめれる、身を苦しむ元があるのです。いかにもいかにもバカらしい。それは人間の欲なんです。実はバカらしいことじゃない有り難いこと。朝お参りしてからまた1時のお祭りである、1時の御祈念であるなら、12時頃からご飯頂いてすぐ出て来んならん。
 ですから、ここへんの観念をですね、すっきりとひとつぬけたい。この辺のひとつ人間心をすっきり取り除きたい、ね。そうしてです、なるほど、自分の欲得というものを、から外れて、ね、教祖様じゃないけれども、もう百姓なさることなしに、ね、御神前ひとつに、神前奉仕にひとつに、打ち込んでおいでられる。一日の、例えば朝お参りしてまた昼もお参りをするというように打ち込んでしまう。
 そんなら商売がお留守じゃ留守になるじゃないか、それでは商売はどうなるかというこの言うなら人間の思いというものをです。捨て去る所に我情を捨てる事になるのであり、言わばそこん所に欲得を捨てる修行がそこからなされて来るのである。そこから生まれて来る所のおかげというものは、もう是はね言うなれば5と5と10になると言った様なおかげであるならばもう5×5、25と言う様なおかげに成って来るのです。
 それをお互いがですね、信心の言うなら、体験の上に立った信心。昨日一日を休まして頂いたら、あくる日は二日分商いがありましたというようなことをよく皆さんが言われますけれども、二日分三日分ぐらいじゃないようなおかげになってくる。これは初めからじゃないですよ。言わばここんところからですね、どういうことになってくるかと言うと、「此方の道は傘一本で開くことができる。」と仰る。
 この方の道この方の道。まあ中村さんで言うなら、ね、履物屋さんというお商売の道がですね、そこから開く事が出来るいやそれ前にそこからです、ね、もう何に引っ掛る事もない、何に煩わせられることもない、いわゆる不壊の心、ね。もう誰が何と言うても壊れない不動の信心。そこから生まれてくるのが安心、ね。そこに安心の傘を開くことができる。そげなことしちゃならんもう教祖の神様のごと。
 それはもう神様お取次者ならなりゃん先生にならなん。決してんならそうじゃない、ね。この方の道はと仰るのは百姓道、商売道。そういう道が開けるためにです、まず安心のおかげを頂ける。その安心のおかげを頂くためにはです、自分の身の都合のための信心どんしよったぶんじゃあ、安心のおかげは頂かれん。人間心で考えよると、それは何時間という時間が惜しい。これくらいなお金がかかる。
 そういう言うならば、ね、欲得というものを捨てる稽古を本気でする。そこの欲得にふけるのではなくて、欲得を捨てる稽古をさして貰う所に
  (録音不良)
 これだったら一生、私はなるほど商売繁盛のおかげを頂きたいだけのおかげは受けられるとの(?)。お願いをして、商売繁盛を願う、商売繁盛だけの、身を苦しめるまでに、そういう、(?)にいたるまで、たわしいっちょでん、普通であったら自分が配達までせんならんという(?)がついたんじゃだめだということ。その万屋さんからですね、同じ万屋さんでも、ね、身に徳を受けて、言わばデパート。
 スーパーマーケットのそこの社長さんになっておられる。そこの大将になっておられる。配達員がちゃんとおる。輸送かかっても、そこには勅令技術の主人がおる。洗い物の方は洗い物の方の係がちゃんとおる。どうでしょうか、ね。自分が例えて言うならばボタンいっちょ、社長室におってから押せば、できること。言うなら、合楽のお広前にかかっておっても、電話いっぽんで指図することができる。
 まあこれはね、表現のしようがないから、こんなふうにお話しておりますけれど、そういうふうにひとつかたに決まったもんじゃないです。おかげというのはどういうふうな、いわゆるこの方の道が開けてくる道というのは、どういうふうな素晴らしいことになってくるか分からんですけれども、その開けてくる道というのは確かに身を苦しめんですむところの道が開けることだけは間違いないです、ね。
 あら、そげなことしよるなら金光様の先生にならにゃならん。まあ例えて言うならば、ここの甘木の平田さん辺りがそうでしょう。自分どん好きで好きでたまらん信心。その信心にただただ打ち込んで、もう毎日が言うなら神様の御用にあちらに走り、こちらに行きして、道を通っていく。そこに助かった経緯のできることの楽しみで、言うなら神様に喜んで頂けれることを一生懸命なさっておられるから。
 家の方では神様が一生懸命、働いておって下さる、という感じでしょう。百姓も沢山してなさる、ね。大きな石油工場ば持っちゃる、大きなパン工場も持っちゃる。原鶴には何々ホテルと、旅館という、旅館も経営しよんなさる。どうでしょう、自分がもう旅館の方の会計はどんげんなっとるじゃろうかっち、毎日毎日いって回らんならん。パンの方はどげんなっとじゃろうかときて自分がいちいちソロバンとってから。
 従業員がごまかしどんおらんじゃろうかと帰ってから心配せんならん。はあ百姓の方はどげんなっとるじゃろうか。例えばそれだけのことをしてする、とても人間ができるこっちゃないです、それだけんこと。どげん捌けとったちゃでけんです。それを自分でできる場所のごと、さあ、自分がその現場回りをしなければでけんごと思うて、信心の方までお留守にしてしまうというようなことではね。
 さあそれは程度のおかげは受けられても、これではいつまで経っても身を苦しめることなかれと仰る、身を苦しめなければならないということ。ですからそれほどのですそれほどおかげの頂けれる道なんです。その方がこの方の道はと仰る、そのような道なんです。そのような道を御理解に「此方の道は傘一本で開くことができる。」傘一本で開くことができる、限りなく開ける。
 そこでその傘一本であるところの安心のおかげを頂くために、ね、立教神伝にあるように、「この幣切りさかいに、肥灰差し止めるから、そのぶんに承知してくれ」というところをです、ね、少しずつ話さして頂く稽古こそが、私は今度の夏期修行だとこう思うんです。夏の修行だと思うんです、ね。朝皆さんがお参りをする。そして、また1時に参って来んならん。場合には、ね、店閉めて来んならんかもしれん。
 けどそこにはですもう所謂みよくみとくというものをです、欲得というものを外しての神様への一途にお参りをしてくる、ね。しかもこれは50日間という日をきってあるというところにです、信心の稽古というものをです、ね、やはり小刻みに、そしてその中から生まれてくる体験。秋永先生が昨日、(?)を頂かれました。寒中修行の50日間をおかげ頂き、初めから自分は朝参りなんかって考えたこともなかった。
 長年信心さして頂いて。ところがいよいよここから朝参りをはじめさして頂いたら、一月経ち、50日間経たして頂いた頃には、これはとてもひと月たっても止められるもんじゃあない。言うならば、一生が修行であるというほどのですね、その味わいが楽しゅうなってこられたということです。そしてこの夏の修行もこれは危なか、危ないもんじゃあるちゅうわけです。
 これはまあ夏の修行っちゃあ、1時に参りよったらまたこの都度都度1時参らにゃんごとなったりせんじゃろうかっち。あげな信者じゃろうかっちそげんなりよるのも有り難い。それこそ欲得を外してから神様は例えば高橋さんが、朝お参りをしてみえるそしてそれからここにおられてから、1時の御祈念を頂いて、夕方から家に帰りなさる。と言う様な事ででもです、もしなら三福なしが繁盛していきゃあそれでいいでしょう。
 さあいちいちお金はどげんなっとるだろう、さあ支店の方はどげんなっとるじゃろう、自分が頭突っ込んで、ね、いちいちそれかけ混ぜくらんでもです、言うならボタンいっちょで本店も支店の方も、結構回っていきよってからまあいっちょ位支店儲けたっちゃよかちゅうごたるふうになってくるならどう言う事に。神様はそれができることをここに明示しておられるわけです、ね。
 傘一本で開ける道なんだ。お前の力で開ける道じゃないのだ、金光様の御信心は。傘一本で開ける道なのだ。これはもう限りがないのだ「この方の道は傘一本で開くことができる」ということは今日、私皆さんに話しましたような内容の道が開けてくるのです。この方の道とはどういう道か。商売道、百姓道、一切の道という道がしかも、言うならば万屋さんからデパートの方になるような道が開けてくるのです。
 同じ万屋さんでも同じお寿司屋さんでも。ご主人な合楽通いもうとにかく合楽に移住してござってっちゃ、支店また支店が出来て行く様なおかげが頂けれる道なんです。これは一番皆さんの身近な例は、平田さんを見れば分かるじゃろうがということ。旅館パン屋さん製油工場大抵の仕事じゃない、どの仕事だってみんな。それに百姓を何丁かしござるでしょう。それを自分がつき桑使うて自分が旅館の兆番座りこんで。
 もう他んことはなぁに。それで自分な一生懸命やって、何々旅館が繁盛しよりますと言うだけにすぎん。おかげは頂けるでしょうけれどもそれよりか、それでは身を苦しめることになるのです、ね。ですから今日私が言うた言葉で表現したそのことはですね、ただひとつのひとつの表現にしか過ぎんのですから、これはそれぞれの道なのです、ね。それぞれのスタイルというものがやっぱりあるのです、ね。
 だから、私が言うことには当てはまらないこともあるのです。だから、その人はその人の道の開けていく生き方というのがあるはずです。そこで、お互いがですね、欲得にふけりて身を苦しむることなかれと仰る、欲得にふければ必ず自分の身を苦しめることになる。その身を苦しめんですむ、稽古をさして頂くというのがです、ね。毎日こうやってお参りの修行はもうこれ当たり前のごとして皆さんができよる。
 けれども、もういっちょこれに欲得を放してみるというのが、言わば寒中修行であるとか、夏期修行なんかに、本気で打ち込んでみることであると私は思うです、ね。自分の思いというものを一遍捨てて、50日間本気で一生懸命になる。そこから私は生まれてくる体験。そして、そこに開けてくる道が、はあこれならば開けるに違いはないというようなおかげを頂かにゃならん。そこでその一本の傘を頂かせて頂くと、ね。
 安心のおかげ頂かせて頂くために、お互い一生懸命の、言わばこの方のの道は修行道だとこう申しました。その修行に本気でひとつ打ち込んで、なければいけないという、まあみなければいけないですね。夏期修行なら夏期修行にひとつ、打ち込んでみるのである、ね。そして、修行の有り難さとか、ね、楽しさというものを身に付けていって、これなら一生、これが修行であっても、有り難いことに分からしてもらう。
 これは私が二十年前に頂いておる御教えに、「死んだ気で励め勤めよ徳がつく。道も開ける人も助かる。」死んだ気でということは非常にこう厳しいですけれども、例えばこれは、ね、欲得を外すということはやっぱり一生懸命にならなければ外されるこっちゃあありません。例えば中村さんが、昼も参らんならん。昼は店を閉めて来ると言った様な事はこれはもう、言うならばもうままよということ。
 もうこの間でお客さんが来なさったっちゃ50日間の事じゃけん。もう50日間なら1時から3時までは休業いたしておりますと言う事であってもいいんだと言うのですから、してみりゃ楽な事なんです。欲得があるとそんな訳にはいかんと言う事になって来るね。けれどもその欲得をですね外さして頂くと本当にこげん楽な事はなか事成って来るね。そこに所謂徳がつく。そこから道も開けてそこから人も助かってくる、ね。
 これは金光様の先生ならずとも、平田さんあたりのような場合にも徳を受けられたら道も開けてきた。いわゆる様々な仕事の道もどんどん繁盛するばっかりである。同時に平田さんのおかげで人が助かっていくというような道までが開けてきたということである、ね。こういう私はね皆さん折角金光様の御信心によって頂けれる道とはそういう道なんです、ね。「肥灰差し止めるからそのぶんに承知してくれ。」今日は皆さん「肥灰差し止めるからそのぶんに承知してくれ」という神様の言うなら。
 ご裁伝が下がった様な気持ちで皆さんが受けられて、ね、愈々この16日からね全国これは一斉に行われる夏期修行に参加さしてもらうと言う事、ね。身を苦しめんで済む為の修行言わば欲得を捨てさして頂く為の修行。そこから一本の傘が得られるその一本の傘が成程この傘一本ありゃあ、全ての道が開けるに違いはないという確信をもっての日常生活。ならそこから出来る様なおかげのですね、基礎をひとつ作らして貰わなければならんですね。
   どうぞ。